70周年に寄せて≪ピアノ科外谷東先生≫
IIDA JAZZ SCHOOL 70周年記念誌に書ききれなかった思いをこちらに頂きました。
記念誌は、短縮Ver.ですが、こちらで全編お読みください。
外谷東先生から
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父の仕事の関係で転勤も多く、何一つ続かなかった私、唯一音楽だけは、好きでい続けられました。ジャズと言うよりプロのミュージシャンに憧れ、真剣に勉強してみようと幾つかのスクールに問い合わせました。事務的な返信の多い中、手書きでとても親切な文面の返信に感激して飯田ジャズスクールを選びました。書かれた方は、飯田敏彦学院長のお母様、「イイダのおばちゃん」でした。
習い始めますと、教則本、楽譜、マイナスワンテープ等、全て手作り、音楽愛に溢れていて、毎回音楽を知れる喜びで夢中になりました。教材は飯田敏彦学院長のお父様、進駐軍時代のバンドマンだった飯田龍夫氏の制作でした。レッスン中ロビーでお会いしますと、音楽の話を延々と熱く語って下さいました。アメリカの理論書も英語版を訳しながらの勉強でした。後に飯田敏彦学院長が「ジャズハーモニー1.2」として出版、ジャズ理論書として最高の名書です。
当時はまだカラオケも無い時代、銀座のクラブでBGMとお客さんの歌の伴奏という仕事がプロデビューでした。ピアノも下手、楽譜も読めない、曲はお客さんの方が知っている、という散々なスタートでしたが、オーナーや仲の良いお客さんが深夜迄、練習に付き合って下さり、1ヶ月位しますと、だいぶマシになったかと記憶しています。
飯田スクールでは、進藤めぐみ先生が、本当に基礎から丁寧に教えて下さりました。
ある日、田村翼さんというジャズピアニストが先生としてみえる事になり、ドキドキしてスクールに行きますと、今まで聞いた事の無い力強くて美しいピアノの音色が‥田村翼氏の演奏でした。以降、約8年間師事し、ジャズの素晴らしさを、その演奏から吸収させてもらいました。当時はフュージョンの名残りも有り、スクールの中でも好みは様々でしたが、一夜にして皆、「ピバップ」を愛する様になりました、田村翼氏の本物の演奏の影響でした。
仕事は、銀座の「ピアノの先生」から、新宿歌舞伎町のダンスホール専属バンドへ。厳しいバンドリーダーでしたが、プロミュージシャンとして必要なあらゆる事を教えて頂きました。スイング、タンゴ、マンボ、ビギン、ワルツ等の様々なリズムの中、2ビートの大切さと「リズムのジャスト」という、音楽家必須の技術、その後の演奏の土台となりました。
演奏活動がジャズのライブ中心になったのは、30歳代と遅かったです。ライブ活動をしていく中、スイングのノリ、8分音符に関しては、何年たっても悩むばかり、そんな時に飯田スクールで出会ったのが、大山日出男氏です。
耳の良さと感覚的な田村翼氏に比べて、理論的に伝えて下さる大山日出男氏の考え方は、いつも目から鱗です。おかげで、リズムに関しては、かなりの疑問が解明されたと感じています。
自身も、教わる側から教える側に、長い演奏活動の中で最も伝えていきたい事は、やはりリズムです。教則本には載せる事の出来ない、諸先輩方や共演した優れたプレイヤーから身をもって学んだ財産を、生徒さん達に受け継いでいって欲しいです。
現代では、ジャズを学ぶ為の便利なツールもありますが、生きた本物の良い音楽は、人から人へと継承されるべきだと思います。音楽を真剣に語り合える仲間も必要です。その地道でコツコツとした作業を紡いできた70年の伝統が、飯田ジャズスクールにはあります。
外谷東